2017年2月28日火曜日

日本書紀の『遠江国』〔006〕

日本書紀の『遠江国』

前回の検索で書紀に「遠江国」の記載(4)があることがわかった。順に見てみよう。

巻第十一 仁徳天皇紀

六十二年夏五月、遠江司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩。」時遣倭直吾子籠、令造船而自南海運之、將來于難波津、以充御船也。

「遠江国」の「大井川」で大木が見つかり、それで船を造らせ「南海」を経由して難波津に持ってきた…というような内容である。遠江国東方、現在の静岡県に大井川がある。遠江国と駿河国との境界であり、日本で初めての井川ダムが造られたところである。加えて「南海」を運んだというから、それなりに筋の通った話のように聞こえる。
だが、これは大変な時代錯誤の言葉を織り交ぜて、それらしく見せているだけである。「南海()」は律令制確立後の五畿七道で用いられた言葉「南海道(紀伊~淡路~四国)」であり、古事記には出現しない。また、大井川から運ぶとすると「東海道(伊賀~伊勢~遠江~駿河~武蔵~常陸)」から「南海道」を経て難波に到着することになる筈である。通訳は「ミナミ ノ ウミ ノ ミチ」である。苦労が偲ばれる。
前記で遠賀川河口付近の古地名「岡」=「遠江」=「遠賀」とした。これに由来する国があったことを示していると思われる。宗像市の釣川に大井川という支流がある(大井ダムが造られている)。これらを併せると、遠賀川左岸(現在遠賀郡)~宗像市辺りを「遠江国」と見なすことができるであろう。<追記>
では「南海」とは何処を指すのであろうか? ここを通って難波津に向かうのである。間違いなく「南海」=「淡海」である。なんとも皮肉なことに「近江」「遠江」は東西に並んでることになる。「淡海」=「近江」に置換えるということはトンデモなかったのである。さすがに重なってはいないが、いや一部は重なるか…。
「淡海」=「近江」の置換えを明らかにできたが、実は、「近江」に無関係なところにおいては「淡海」=「南海」の置換も行われたことを浮かび上がらせることができた。このことは反って、日本書紀における近江大津京の所在地に関する「徹底した」情報操作を表しているものと思われる。
前記で「遠江」は固有の名詞でなく、また「川楊」に注目したことから作者の周辺で「遠江」=「現在の行橋市を中心とする入江」としたが、「丸雪降」の場所を国の広さにまで広げるなら「遠江」=「遠江国」と解することもできるかと思われる。どちらでもとれるように、あの曲者は詠ったのかもしれない。

巻第二十四 皇極天皇紀

辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁

宮殿用の屋材の調達範囲を示しているようであり、「遠江国(静岡県)」~「安芸(広島県)」のような意味不明な解釈はできない。遠賀川と釣川の間にある「湯川山~孔大寺山~戸田山」の山塊を示しているかと思われる。

巻第二十九 天武天皇紀下

丙戌、自筑紫貢唐人卅口、則遣遠江國而安置。
地名的なことに関しては、そのままである。天武天皇に関する情報は乏しく、どのように浮かび上がらせるかは今後の課題である。

巻第三十 持統天皇紀

甲午、詔免近江・美濃・尾張・參河・遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁・造行宮丁今年調役。

律令制成立後の名称であろう。既に「近江国」「遠江国」が並記されている。

纏めてみると重要な意味を有する結果であった。書紀の編纂に係わった人達は大変な作業を継続した。「淡海」を「近江」に置換えるだけなら、現在では検索(置換)で瞬時に完了するが・・・。日本書紀の置換え、今はそれを垣間見ただけで、もっと深いところが潜んでいるのであろう。

…と、まぁ、ボチボチ、です。



<追記>

2017.09.02
その後の考察より「遠江国」は上記の「湯川山~孔大寺山~戸田山(→城山に変更)」の山塊…邇邇芸命が降臨した「高千穂之串触岳」…までと思われる。古事記の時代の「日向国」までで、現在の福岡県遠賀郡の行政区分に相当する。現在の宗像市は「阿岐国」と呼ばれていた地域を含むと解釈される。上記の「安藝」である。


<Google Map 3D>


また、第35代皇極天皇は北九州に坐していた。おそらく近淡海国内であろうか。第37代斉明天皇でもある。古事記が途切れた後の出来事である。