2017年4月3日月曜日

『宇遅』の在処〔019〕

『宇遅』の在処

思わず鳥を追いかけて遠出をしてしまった。木の国から近淡海国を経て高志の国まで、それらは周防灘に面する諸国であった。今回は足元を見てみよう。「山代」の近くの筈である。

応神天皇の時代、仁徳天皇が即位に至る時期に起った出来事「宇遲」が登場する。通訳の「宇治」に該当する場所であり、歴史の表舞台となる重要なところである「豊前の宇遲」は何処にあるだろうか…。

父親である応神天皇から、皇位は四男「宇遲能和紀郎子」だと言われていたが、天皇逝去の後、三男の「大山守命」の謀反を察知した「大雀命(仁徳天王)」が宇遲能和紀郎子に告知した、その後の出来事である。

少し長いが原文引用する(武田祐吉訳)

於是、其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊、將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其床、都不知執檝而立船、卽問其執檝者曰「傳聞茲山有忿怒之大猪、吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執檝者、答曰「不能也。」亦問曰「何由。」答曰「時時也往往也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中、爾乃浮出、隨水流下。卽流歌曰、[ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧よろいを衣の中に著せて、河のほとりに到って船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾った處を見遣って、弟の王がその椅子においでになるとお思いになって、棹を取って船に立っておいでになることを知らないで、その棹を取っている者にお尋ねになるには、「この山には怒った大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取った者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになったので、「たびたび取ろうとする者があったが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡って河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は]

知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許牟
[流れの早宇治川の渡場に棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ]

於是、伏隱河邊之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到訶和羅之前沈入。訶和羅三以以音。故、以鉤探其沈處者、繋其衣中甲而訶和羅鳴、故號其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時、弟王歌曰[そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起って矢をつがえて攻めて川を流れさせましたそこでカワラの埼に到って沈みました。それで鉤かぎをもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかってカワラと鳴りました。依って其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌った弟の王の御歌]

知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流 阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美麻由美
[流れの早宇治川の渡場に渡場に立っている梓弓とマユミの木、 切ろうと心には思うが取ろうと心には思うが、 本の方では君を思い出し末の方では妻を思い出し いらだたしく其處で思い出しかわいそうに其處で思い出し、 切らないで來た梓弓とマユミの木]

故其大山守命之骨者、葬那良山也。是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖。
[そのオホヤマモリの命の屍體を奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形の君・幣岐の君・榛原の君等の祖先です]

「宇遲能和紀郎子」はなかなかの策略家である。下からよく見える山の上にテントを張り、影武者を居させて、日常の状況を作り出して油断させ、船に細工をした上で河辺に兵士を待機させる。尚且「言向け」して、狙われていることを確信し、いよいよ実行である。世が世ならば、仁徳を凌ぐ天皇になったかも。

「大山守命」の在所は川向こう、必ず船で渡ってくることも承知の上であるからこその作戦である。さて、いくつかの場所を暗示する地名が登場する。それを頼り「宇遲」の在処順に解釈してみよう。

那良山(ナラヤマ)


既に幾度か登場した山である。通説は「平城山」であり、奈良盆地の北方にある山と比定されている。前記のごとく現在田川市奈良に至る丘陵地帯、現在の赤村と大任町の境にある一帯を指し示すものと解釈してきた。当然ながらこれを変更する理由などなく、話を進める。

訶和羅(カワラ)


通説、比定不詳「宇遲」の在処に最も強く関連する場所が不詳。通説は「宇遲」も不詳と言っていると、理解する。というわけで何も気にすることがなくなったのである「訶和羅」=「河原」=「香春」であろう。「宇遲能和多理」=「宇遲の渡」で乗り込んで、川に落とされ、無数の矢を放たれて沈んだところが、「香春」の前であったと明瞭に記述している。

安萬侶くんが駄洒落ぽく述べてるところは要注意。大事なところ、なのである。通説、駄洒落だから比定はどうでも良い、そうなんでしょうか。古事記の情報、もったいない、である。

「香春」に流れ込む川、それ「宇遲川」だと安萬侶くんが教えてくれている。一本なら簡単、しかしそうではない、複数の河が流れ込む合流点なのである。だから豊かな「河原」が形成されたと思われる。

宇遲(ウヂ)


難関の「宇遲」の文字解釈に入ることになる。ネット検索の結果も各者各様、表記「菟道」「兎道」があるが、「菟道(ウジ)若郎子」、南方熊楠の「兎道=うさぎの道」など、その中で宇治市の由来に「うじ」=「内(うち)」とするなど、場所は? 現在の宇治市で決まり、なのである。

「宇遲」=「ウチ(ヂ)」であろう。日本書紀の「菟道」は作為の臭いがする。「道」を意味するところからのものではない。「宇遲」=「内」である。外界に対して「内」、それは自然の形状及びそこに住む人々の外界との関係を示すものであろう。柿本人麻呂の「丸」=「人(麻呂)」と解釈したが、城柵、城壁などで仕切られた内側にあるのが本丸、二の丸…である。

「宇遲能和紀郎子」の母親は「丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣」であり「丸邇(ワニ)の矢河枝比賣(ヤガエヒメ)」である。「宇遲」=「丸(マル)の内(ウチ)」と解釈できる。丸邇(和珥)氏は「宇遲川」を見下ろす高台に居住していたと思われる。

「現在の福岡県田川郡赤村内田」と「香春町柿下」を併せて大坂山南西麓をカバーする。そこに流れ「御禊川」、香春岳麓の香春町で金辺川と合流し、彦山川に注ぐ。前記したように「柿下」=「柿本」であり、丸邇氏の一族である。導かれて得た結論は「宇遲川」=「御禊川」である。

「大山守命」は那良山から御禊川に対して西側から接近し、乗船した。埋葬されたのは彼の在所であったのだろう。「宇遲能和紀郎子」はその後夭折したとのこと。仁徳天皇が全て仕組んだ事件なのかもしれない。古事記は無口である。

大坂山南西麓、その地は丸邇氏一族の拠点であった。香春岳に近く、前記のごとく朱砂を作り、国の繁栄と共に大きく力を伸ばした一族なのであろう。「遠飛鳥」と密接に繋がった豪族として古代に名を残した。柿本人麻呂の出自がそうであるなら、彼が詠う歌の解釈も、また、異なってくるかもしれない。

参考までに地図を…



…と、こんな解釈で先に進もう・・・。


<追記>


2017.11.05
「大山守命 vs 宇遲能和紀郎子」の詳細を紐解いた。こちらを参照願う。