2017年5月3日水曜日

『筑紫』が示す処…〔030〕

『筑紫』が示す処…


古事記が示す「国又は地域」を紐解いてきた。通説が紐解く世界、それは現実離れした伝説の世界とは全く異なるものであり、生身の人間がその目的を目指して、命懸けで苦闘の連続を乗越えてきた生き様の歴史であると理解できた。天皇の言葉、とりわけ彼が詠う歌の中に、短い言葉の中に思いが込められている。

「国又は地域」は時空を越えた存在ではなく古代の人々が営む日常の中にある。万人が首を傾げて読み、また理解できない事件を「神話と伝説」という言葉に隠してきたのである。古代の彼らの日常を取り戻すこと、それは現在の日本人の現実を、将来を理解する上に欠かせないものと思われる。

今までに分かった「国又は地域」を纏めてみると…

1.近淡海国とその南方の国
 木国、播磨国、稲羽国、多遅麻国、旦波國、山代国(7ヶ国)
2.東方十二道
 伊勢、尾張国、三野国、科野国、相武国、新治、筑波、東国、足柄、甲斐、當芸、三重(12ヶ国)
3.淡海を行く北方の国
 高志国、吉備国(2ヶ国)
4.西方の国
 出雲国、熊曾国(2ヶ国)<追記>

これを図示すると下記のようになる…

図から明らかなように記述された国々は九州東北部及び本州最西端にあることがわかる。正に古事記序文に記載された通りに「近淡海国」と「遠飛鳥」を支配かつ統御して、周囲の諸国を「言向和」してきた歴史を物語っている。その領域を如実に示しているのである。

「遠飛鳥」は「銅」資源の獲得、「吉備国」はそれに続く「鉄」資源の保有、そして「近淡海国」は交易の拠点としての「港湾」機能の確立であったことを示している。朝鮮半島からの人材、技術情報は「近淡海国」をポータルサイトとして盛んな受入れを可能とした、と思われる。

この図をあらためて見ると、彼らの支配領域に属し、主要な位置にありながら古事記の記述には現れていないところ、企救半島の西側、「出雲国」に南西方向で近接する場所である。「淡海」に面した最も先進的な位置にあると思われる。が、しかしノーコメントである。何故?

企救半島及びその周辺


この「企救半島」を取巻く地名の詳細を調べることにした。結果的には極めてシンプルな状況を示した。この南方を流れる「竹馬川」、「足立山(竹和山)」の西麓から西方に流れる「寒竹川(神嶽川)」、後の時代ではあるが東方の下関市吉志にある「寒竹城(吉志城)」、キーワードは「竹」=「筑」である

「寒竹」=「紫竹」紫色の小形の竹である。「寒竹」=「紫竹」=「筑紫」と繋がる。そのものズバリではなかろうか。古事記の空白の場所、それは「筑紫国」を指し示すことがわかった。仲哀天皇紀に頻発する「筑紫」について更に考察する。その前に・・・。

穴門之豐浦宮 及 筑紫訶志比宮


古事記原文…

帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也

「穴門之豐浦宮」この宮の比定場所、殆ど異論なく現在の「下関市長府豊浦」とされている。不幸にもこの場所は上記の23ヶ国の「国又は地域」には含まれない。通説なら、そんなことは問題ではない、書き忘れたか、既に「言向和」したところであろう、と解釈するのであろう。

解釈しようとする書物の格下げを行うことは自らの解釈を格下げすることである。矛盾は「穴門之豐浦宮」を「長府豊浦」に置かないことで解決される。二つの言葉「穴門」と「豊浦」について紐解いてみよう

「穴門」は文字通りの地形象形表現とすると「穴門」=「トンネル状の向こうまで突き抜けた入口に繋がる狭まった通路」現在の関門橋にあった海峡の海の通路として解釈することは妥当であるが、固有の地名ではないことを意味する。峠越えする山口に向かう山間の通路を表現していると解釈する

「豊浦」=「豊の代(背)」、頻度高く登場する「山代」と同様の解釈である。「豊」とは何処であろう? 古事記は明確には示さないが、容易に「豊」=「現在の京都郡みやこ町」と予想される。文献的には、豊後国風土記の景行天皇紀に「豊国」直の記述、また旧事本紀には「豊国」造(みやこ郡)などの記述が裏付ける。

田川郡香春町から京都郡みやこ町に抜ける「新仲哀トンネル」がある。

仲哀峠、仲哀平そして仲哀隧道なのだが何故か景行天皇の事績説明…訪問された方のブログは「まぁ、いいか昔のことだから…」素直に、「ここは仲哀天皇が在したところ」だからと言えない苦労が偲ばれる

「穴門之豊浦宮」は現在の香春町から仲哀峠に向かう呉川沿いにあったと推定される。

「仲哀の名水」と呼ばれる場所もあり、仲哀天皇の御所があった地点を示していると思われる。

歴代の天皇御所は清流、またそれが貯水された池の近隣である。その条件を満たさない場所の比定は怪しいのである。

さて、本題の「筑紫訶志比宮」、これもほぼ異論なく現在の福岡市東区香椎にある「香椎宮」に比定されている。

上記と同じく、ここは神武一家の支配領域ではない。そこに天皇の御所は存在しない。

「筑紫」は現在の北九州市小倉北区、足立山西麓の足原、妙見町、山門町、小文字、富原等に当たると思われる

「訶志比宮」とは「訶志比」=「傾位」=「傾いた場所」=「山の急斜面」と解釈される。

「寒竹川」が傍を流れる、現在の妙見宮辺りと推測される。この地は「初代神武天皇」の原点であり、古事記が物語る天皇家の故郷である。細部を物語る必要性のない場所なのである。そこで誕生した天皇家が現在に繋がると古事記が伝えている。

「全国」を支配した神武一家の第一世代天皇達、仲哀天皇よりその発展の第二世代が始まる。物語が一度その原点に戻ったことを示しているのである。皇后の活躍を通して安萬侶くんが伝える…

息長帶日賣命(神功皇后)


古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)
其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將擊熊曾國之時、天皇控御琴而、建宿禰大臣居於沙庭、請神之命。[皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)神懸りをなさった方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになって熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈きになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました」

…という説話である。天皇ご一行は「熊曾國」を打つ為に「穴門之豐浦宮」から「筑紫之訶志比宮」に移った時のこととある。[倭建命」の西征で「建」の字を貰った筈だが、まだまだ「言向和」が必要だったのであろう。彼らの支配下には至らない国の一つである

「熊曾國」は前記で比定した通り現在の北九州市戸畑区と若松区の洞海湾近辺(熊曾国の再考で企救半島北部に修正済)である。香春町から小倉北区足立山西麓への移動は合理的である。「熊曾國」のほぼ真東から紫川が注ぐ湾を挟んで対峙する状況である。「筑紫之訶志比宮」は行宮としての機能であったろう。

説話は「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國。吾今歸賜其國」[西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう]の神託に従って神功皇后自ら新羅国、百済国へと向かったと述べる。懐妊中の皇子(後の応神天皇)の存在を示し、天照大神、「底筒男・中筒男・上筒男」の住吉三神までも登場させて、西に向かう。

新羅の血を引く神功皇后を使っての故郷凱旋の様相である。「整軍雙船」充実した国力の顕示であり、神武以来の成果報告と将来への布石と受止めることができる。第二世代の更なる発展への協力要請である。戦闘などある筈もなく「征伐」の意味など微塵もない、天皇家の努力の有様を述べているのである。

応神、仁徳天皇紀での彼らの活躍の基盤が作られた様子である。前記で記述した通り、彼らが詠うことはそんな基盤の上で如何に活き活きと国力を高めていったか、ということなのである。中国本土の技術、朝鮮の新しい技術を盤石の国家造りに活用した例示であった。安萬侶くんの戯れに惑わされてはならない。

筑紫国の詳細


故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになって、その河の邊で食物をおあがりになった時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取って飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません]

一読のごとく地名の羅列である。一つ一つ紐解いてみよう。「筑紫末羅縣之玉嶋里」に含まれる「末羅」とは何を意味するのであろうか。通説はほぼ全て「末羅」=「松浦」とする。読みの類似からだが、「末」の意味とは掛離れている。地形象形としての「末羅」の解釈は「末羅縣」=「詰めて並んだ最後の縣」となろう。

「淡海」に面したところ、それは現在の北九州市小倉北区赤坂である。古より九州の玄関口、赤間関(現下関市)への渡し場であり、だからこそ数多くの事件を歴史に残している場所である。何故ここまでこの地に集中してきたのか、それはこの地の東方は山と海によって隔絶されているからである。

現在の交通機関は問題なく行き来できるようになっているが、古は全く状況が異なったのである。この地を古代史の表舞台に引きずり出さなかった解釈こそ問われるべきであろう。

現在は土砂の堆積、埋立て等によって当時の地形は見られないが、手向山の西方は小さな島々が浮かぶ淡海であったろう。それが「玉嶋里」と表現される所以であると思われる。一つに比定するならば現在の妙法寺がある小高い場所ではなかろうか。かつては「延命寺」があったところであり、「延命寺川」が流れる付近である。

「小河」=「延命寺川」であろう。「小(河)」=「小(倉)」に繋がり、更には「小(文字)」に繋がる「小倉」の地名の古に繋がるものであろう。

余りにも有名な「鎮懐石」の説話、その場所が「筑紫國之伊斗村」である。小さく柄杓のような「斗」の地形象形から浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷合の土地であろう。延命寺川上流の小倉北区常盤町辺りと思われる。「常盤」=「常(トコ)磐(イワ)」=「トキワ」である。


この地は足立山山塊の北西麓を占める「富野」に含まれる。


「宇美」=「富」と解釈される[追記]。岩に名前を付ける? 安萬侶くんの戯れ? 

ならば「勝門比売」=「勝ち組みの姫」とでも、だから姫たちがこぞって真似をした?…かもである。地図を参照願う…

神武一家の故郷、足立山西麓斜面の「訶志比宮」、古代からの交通の要所「末羅縣之玉嶋里」、天地四方大きくて豊かなところ「宇美」までを、その詳細を語っている。

この地が栄えある「筑紫」である。

そしてこの地もまた「国譲り」とされたのである。譲られた先は九州西部、所謂律令制定後の「筑前国、筑後国」となった。


古事記が記述する推古天皇までの古代国家の「地図」を描いた。歴史は「白村江の戦い」へと進み大和朝廷の出現へと動く。暇が取り柄の老いぼれのブログは、この「地図」が如何にして拡張膨張されたのか解き明かすことになろう、できればの話だが…。今暫く古事記の伝えんとするところを紐解いてみよう・・・。





<追記>

2017.06.27
「宇美」の解釈修正。「宇」=「尾根の端にあって小高くつきでたところ(山麓)」「美」=「豊かな、見事な周辺」(地形表す文字の接尾語)。上図からわかるように足立山から北に延びた稜線の麓を示すと解釈される。

2017.09.14
「熊曾国」の場所の修正。企救半島北部。

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「筑紫」の由来

<筑紫>
「筑紫」の名称は如何なる地形象形から生じているのであろうか?…「筑」=「竹+巩」であり、「竹」=「山稜」を表す。

「巩」は何と解釈するか?…これが筑紫の地形を示している。また「紫」=「此(並ぶ)+糸(連なる山稜)」とできる。

着目すべきは「巩」=「工+丮」に含まれる「丮」の文字が表す山頂が平らな地形であろう。図を参照すると、足立山の平らな頂上をそれに見立てた文字の姿が浮かんで来る。

更に「紫」の「此(並ぶ)」は二つの長く延びた山稜を示していることが判る。「筑紫」は足立山(古事記では美和山)を中心とした山稜が描く地形を象形した表現と紐解ける。

これらはここに示された深い谷は「黄泉国」であり、「紫」=「比婆之山」に該当する。幾度となく古事記に登場する重要な地点、そしてその地の全体の地形を表していたのが「筑紫」の表記であることが解読されたのである。

尚、古事記では「筑紫」と「竺紫」は明確に区別される。と言うか、「竺紫」は登場三回に過ぎない。「竺紫」も上記と同様に地形象形した表現なのである。詳細は<日子番能邇邇藝命>または概略図を参照願う。(2018.08.23)


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