2017年5月23日火曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その参〔039〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その参


出鼻を挫かれた伊波禮毘古命は兄の葬儀もそこそこにして、「東から攻めろ」という遺言を忠実に守ろうとする。が、彼らは元々海洋民族、決して地上戦は得意ではない。南の方にある大きく口を開けた入江から突入したくもある。それでは、例え東からとは言え、待ち構える那賀須泥毘古には飛んで火に入るなんとかに…初戦の二の舞になりそうである。

彼が選択したルートは「大倭豊秋津嶋」の東端から山越えで侵攻するしかない、と言う結論であった。不安を抱えながらその東端に取り付く、そこが、あの恐ろしき熊野の山々だと、知ってか知らずか・・・。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子卽寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。[カムヤマトイハレ彦の命は、その土地からつておいでになって、熊野においでになった時に、大きな熊がぼうっと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失って仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもって天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤めになって、「隨分寢たことだった」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失った軍隊が悉く寤めました]

「紀國」、現在の北九州市小倉南区吉田から南進めば「大倭豊秋津嶋」の東端に辿り着く。現在の苅田港(福岡県京都郡苅田町)辺りである。現在も重要港湾に指定されているが、古代からその立地の良さが際立っている。石炭、石灰石、自動車等々どれも主要産業を担う位置付けである。

熊野


「熊野村」=「隈野村」であろう。「秋津嶋」の「東北の隅(スミ)野の村」となる。ほぼ直角の隅である。その背後にあるのが「熊野山」。当然のことながら「熊」そのものの持つ意味合いも含めているのであろうが…。まぁ、現在も繁栄する優良の町の古名とのギャップ、歴史のうねりの奥深さを感じさせられる。安萬侶くんの戯れかな?・・・。

上陸するや、大きな熊が現れた。「髪」=「ほのかに」(武田氏:ぼうっと)と訳するそうで、なんとも優し気な熊だが、やることはキツイ。慣れない山道での出来事である。ここは例の「貫山」山塊に繋がるところ、倭建命がこっぴどくやっつけられた場所近くである。本物の神様が住んでる、そんな訳ないが、彼らにとって不可侵の領域である。

「熊野之高倉下」に助けられる。神剣である。日には日を、神には神、である。一寸先は闇、いや、霧かな? 低山の山道を侮ってはいけません。

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」[そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子たちは困っていらっしゃるらしい。あの葦原の中心の國はもっぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降って行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤めたら、この大刀を取って天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依ってこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石上神宮にあります]

困った時の神頼み、お出ましである。常にお二人揃って天照と高木の二柱様。葦原中国が騒々しい、これの意味するところは後日に譲ろう。古事記のパターン、二柱の言うことを素直に聞かないのである。多くは自分の子供に任せる、これも「国譲り」と同じ発想かも…。意味するところ、後日に譲ろう、本ブログのパターン。

やはり神剣であった。由緒のある横刀(大刀)、その降ろし方まで詳細に書いて…興味があるが少し脇に置いて…それにしても先は長いのに、こんなところで立ち往生している・・・と、また神の助けが…

於是亦、高木大神之命以覺白之「天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。[ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光っております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。]

不慣れな山越えルートを選択した伊波禮毘古命、見るに見兼ねた高木御大からの八咫烏の支援である。なんとルートガイドまで提供される。奥には行くな…そうです、その山塊はとても危険…初めに言ってよ…なんて馬鹿なことは言わずに素直に後をついて行くこと。後に倭建命が深手を負う山塊なのである。

鳥にはめっぽう興味があるのだが、これもちょっと脇に置いて…「秋津嶋」の東端から少し入ったところで平地に出るルートを教えて貰った。上記京都郡苅田町から京都峠を越えるルートであろう。豊前平野北部に下る。


吉野


行き着いたところは「吉野河之河尻」=「小波瀬川下流」当時は現在の苅田町岡崎(岬を意味する)近くまで海であったろう。そこに辿り着いた。雄略天皇紀の「吉野」の探索で比定した川である。

「阿陀の鵜飼」の祖に出会う。「阿陀」=「阿(高台)の陀(崖)」である。吉野河(小波瀬川)の上流にある「平尾台」(北九州市小倉南区)に、「阿陀」を登り、至ったことが示されている。そして「生尾人、自井出來」、「井」から「生尾人」が出てきた。

「井」=「カルスト台地のドリーネ」であろう。水汲みの「井戸」ではない。ドリーネとは石灰質の岩がすり鉢状に溶食された凹地あるいは内部が空洞化した後陥没して形成される。「生尾人」は毛皮を着した姿の表現であろう。

神様の話ではなく、生身の人、だからこの地、吉野の首あるいは国栖の祖となる。応神天皇紀の洞穴で醸したお酒を献上した人々である。吉野の大吟醸である。繋がりました、更にこの地は雄略天皇が「蜻蛉野」と叫んだところである。「吉野」の地が確定した、と思われる。

ドリーネに住む人々、その「事実」を古事記が記述した。貴重な「文献」かも…。驚くのは、次の一文「其井有光」数ある鍾乳洞の中に「光水鍾乳洞」がある。今、一般公開はされていないようであるが、極めて重要な「証言」ではなかろうか…。平尾台カルスト台地、大切に保存することと、より詳細な調査研究が行われることを期待したい。


「光る洞穴」言えば、ニュージーランド北島、ワイトモ鍾乳洞の土ボタル(グローワーム)が有名。日本でもヒカリゴケ(苔)、ヒカリモ(黄色藻)等々が燐光を発して神秘的な雰囲気を醸し出す、各地で知られた例があるとのこと。清水の豊かな場所であろう、それが少なくなって日常の中では見られなくなった。

いずれにせよ、この地は極めて特徴のある場所である。土蜘蛛と表現したり、様々に特異な人達が住んでいたことを示唆する記録が残っている。そこに日ノ本の原点を見出して来なかったことが、なんとも、悔やまれる。

本日のルートマップである…


安萬侶くんの「熊野村」に翻弄されたルート解釈であった。「熊」は畏敬の対象として古事記で一貫して示される表現である。なかなか香春に到着しないが、着実に近づいている、との感触はある。次回はもう少しドラマチックな展開を期待しよう。

…と、本日はここまでで、なかなか神武東征、終わらないが、お付き合いのほどを・・・。



<追記>

2017.06.16
またもや見逃し…と言うよりも繋がらなかった、なんともである・・・。

上図で熊野村から吉野河之河尻に向かう途中、神剣を授かり、その上にルートガイド:八咫烏まで付けて貰った…熊野の山を抜けた処が「八田山」あった。何と読む、「ハッタサン」「ヤタサン」?



「八咫烏」=「八田(ヤタ)の烏」ある。現地の道案内ができる熊野の毛皮を着た山男、ではなかろうか。神倭伊波礼比古の超人的活躍、いよいよ現実味を帯びてきたと、些か反省しながら追記してみた。