2017年5月15日月曜日

沖ノ島文明〔035〕

沖ノ島文明

伊邪那岐命・伊邪那美命の国生み、説からでは何もわからなかったその意味が、ただ伝説・神話の類と片付けられてきた記述が、彼らの行動を通じて何かを伝えんとすることが感じられた。「沖ノ島」を中心とする世界の存在、それを示しているようであった。

今一度国生みについて考察してみよう。前記の国生み巡回ルートを参照願いたい。この巡回で計14個、また既に比定した2(六連島、馬島)を合せて計16個、これら玄界灘、響灘に浮かぶ島の全てを表している。古事記の記述は決してアバウトな数ではない。彼らの時代に知られている事実を見事に反映していると思われる。

1.「沖ノ島」を中心とした世界とは? その意味は何であろうか?
 大海原にポツンとある島は通説の海の十字路、道標の役割だけなのであろうか?

2.「沖ノ島」に現存する何万点もの遺物、その質、量はなんと解釈できるのか?
 また、近年、と言っても20年余りも前のことではあるが、海底に沈む遺跡が示すものとは?

3.「国生み」された島、そもそも「国生み」とは如何なる意味を持っているのか?
 神話のままに二人の命が産み落とした、それだけのことであろうか?

4.宗像三女神の伝説とは? それが意味するところは何であろうか?
 世界遺産登録で言われる自然崇拝的な信仰の世界に留まることなのであろうか?

…等々、数々の不明な事柄が浮かぶところについて紐解いてみよう。下図を参照願う…


「沖ノ島」中心として半径85km前後の円の中に「国生み」された島々が存在する。通説の「海の十字路」のごとくの道標であろうか? 

当時の、いや今も同様であるように気象状況、船の安全航続距離を考慮すれば玄界灘、響灘の航行は、島伝いが現実的である。通説、「道標、なんとなくそう思える」、よくある例に該当する。

伊邪那岐命・伊邪那美命の「沖ノ島」に纏向きながらの巡行は、当時の現実の有様である。

そう考えるなら、ある意味異常ともいえる遺物の質・量の豊かさと併せると、「沖ノ島」は単なる道標として貴重がられたのではなく、彼らの「世界の中心」であった、との結論に達する。

海底遺跡と認定されるまでにはまだまだ時間を要するであろうが、正に、そこに中心としての「宮殿」があったと見なすことができるであろう。

は、「国生み」は一体何を比喩しているのであろう? 若い二人が産んだ、ではなかろう。島が生まれるとは? 陸地が隆起する、陸地が陥没する…完新世海進(後氷期海進、日本では縄文海進;約6千年前がピーク)と呼ばれる大きな気候変動に伴う海水面の上昇という地表面の変化ではなかろうか。

既に地球氷河期では日本列島はアジア大陸と陸続きであったことが知られている。現在の日本、その周辺に存在する島々、それらほぼ全てが陸続きであった。それらがこの海進によって分断され島を形成した、と理解できる。本州を含め、全て動いている。地震発生もしかり、只今の地形から過去、未来を考えることは危険である。

海進によって分断された島々、半島が沖積によって繋がり現在に繋がる。古事記の古事記は一つの大地が海進によって分断された、と伝えているのである。二人が生んだ島に、成りかけの「児島」があり、「許(碁)呂」が付く名前が目立つ。海進によって徐々に海面下に沈んでいく陸地を表現した、と推測される。納得の命名ではなかろうか。

現在の九州、本州、四国、生むはずがないのである。既に存在していたからである。筑紫嶋、大倭豊秋津嶋、これらは海進にる河川の増巾によって九州本島から離脱させられた。今更ながら古事記の記述に感嘆させられるところ。通説ごとくの「国生み」の比定では、その伝えんがための記述が「海面下」に沈んでしまうのである。

古事記の舞台が幕を開ける前の古の世界の中心に向かい、畏敬の念を表すものであろう。それは「沖ノ島文明」とも言える、古代の、その古代に繁栄した、それこそが日本の原点たる場所を示していると思われる。「正倉院」のような宝物殿ではない、正真正銘の文明の中心であった、と推測される。

世界遺産どころの騒ぎではない。現生人類がアフリカで誕生して、行き着いた一つの重要な地点である。そこで発生した文明を詳らかにせずして、歴史は存在しない。現在、天皇自らが歴史を変えようとされる。もう一歩進んで古事記、日本書紀の解釈を見直す好機ではなかろうか…時間はかかるが始めなければならない時であろう。

…と、まぁ、ちょいと古に行き過ぎたかな?と思いつつ、古事記の世界へと・・・。