2017年6月7日水曜日

倭国の繁栄を示す地名:その弐〔047〕

倭国の繁栄を示す地名:その弐


国の名前に伝えたいことを含ませる、安萬侶くんのやりそうなこと、それは幾らかわかっていたつもりであったが、地域、王の名前にも貴重な情報を盛り込んでいた。今となっては、むしろそれが自然なように感じる。国名は地形象形が重要であろうし、その国の特徴と言えば地域、王の名前が示す、という表記になるであろう。

それにしてもかなりシンドイ紐解きである。些か気力を失いそうになるが、一旦決めたこと、できる限りで進めてみよう。前記した一覧で、今回記述分は太字で示す。( )内は出現回数、無印は1回。

1.開化天皇
[]波⑶ 丸邇 葛城⑵ 筒木⑵ 讃岐 山代 春日 近淡海⑶ 伊勢⑵
日下 甲斐 葛野 若狭  三野国 吉備 針間 多遅摩 稲羽 依網

2.崇神天皇
木国 尾張 八坂 沼名 十市 上毛 下毛 能登

3.垂仁天皇
旦波 筒木 山代大国之淵⑵ 日下 鳥取 尾張国 吉備 

4.景行天皇
吉備⑶  五百木⑶ 若木 日向 木国 宇陀 三野国

なんだか見慣れない文字列が並ぶ。・・・木と名付けられた地名が計5件、「筒木」解釈で味をしめて、と言うわけではないが、これらから取り掛かることにする。

五百木・若木・沼名木


「五百木」た感じは「たくさんの木」であるが、意味不明。検索してみると愛媛県の由来の一つにあがっている。現在の愛媛県喜多郡内子町五百木、という地名が残っているのが根拠である。また、北九州市若松区の由来に「若い松の木がたくさんあった」なんていうのもある。益々混乱であるが、重要なヒントとなった。

「木」は一体何を比喩しているのであろうか? 「木」は正に一本の木が地面に立っている象形そのものである。幹があり、枝がある。これを90度回転して上から眺めたとしよう。幹が主稜線、枝が稜線、それらが谷を挟んで模様を作り出す。これである。地面の様相を「木」で表現している。一気に解釈可能である

五百木:山の稜線が複雑に絡んだ状態。低い山が多くある。丘陵に近い。
若木 :山の稜線が少なく、谷に遮られているところが少ない。谷の浸食が、若い。
沼名木:沼が目立つ山である。稜線の谷間が沼の状態になっている状態。

現在の愛媛県、伊豫国と北九州市若松区の讃岐国、これだけの情報で十分である。以下の比定となる

五百木:伊豫国、現在の若松区有毛・安屋辺り
若木 :讃岐国、現在の若松区小石・小竹辺り
沼名木:土左国、現在の若松区乙丸・山鹿辺り

これらの地名の後に続く命、比売の名前が、全て「入日」である。まるで「入日」で解釈しろ、と言わんばかりの画一的命名である。

上記の有毛にある「遠見ケ鼻」日本一の夕日が拝める場所だとか。

これらの地は玄界灘を西方に持つ、九州最北部に属する地域である。今も昔も変わらぬ景色、そうあって欲しいところの一つ・・・。

若松区の由来、外れていなかったですよ。古事記に記載されてる、と正々堂々と仰ってみては…「面一」の方に限られますが…讃岐になっちゃうか・・・。「粟国」を加えると、この地は「伊豫之二名嶋」である。国生みから時が過ぎ「嶋」の形状が徐々に崩れつつある、それを反映した表記なのかもしれない。

この「木」シリーズ、通説では不詳となっているようである。ネット検索では比定の痕跡も見つからなかった。もったいない、国ができ始めた時の拡がり行く姿が隠れてしまうのである。

八坂<追記参照>


「八坂」とくれば「八坂神社」そうなんでしょう。手掛かりはこれしかない。よく知られているように八坂神社は祇園神社と呼ばれた。「八坂」=「祇園」と考えてよいであろう。地名として現存する場所を探すと次のところが見つかった。北九州市八幡東区祇園・祇園原町、洞海湾を挟んで伊豫之二名嶋の対岸にある。

「祇園」の地名は全国にあり、勿論京都八坂神社近隣もあり、一応の候補とするが、同じく御子の名は「入日」であることことから、ほぼ確定であろう。気にかかるのが上記の等式である。何故、それが成立つのか?

「祇園」=「祇(土地の神)園(特定の場所)」神の園、多くの神が寄り集まってる場所である。「八坂」を紐解くことになる。「多くの坂」ではない。「八坂」=「ヤ・サ・カ」と分解する。「ヤ」=「多くの」、「サ」=「左(タスクル)」、「カ」=「神」となる。これまでにいくつかの紐解きを行った、暇が取り柄の老いぼれのルールに則って解釈される。

繋げて元に戻せば「八坂」=「多くの神に仕えるところ」、「祇園」と同義の表現となる。御子の父親の名前が「八尺入日子命」であり、「入日」を含むと同時に「八尺(サシ)」と記述される。同じく「八尺」=「ヤ・サ・シ」=「多くの師(シ)に仕える使えるところ」となる。師=導く人()と置けば、これも同義である。

八坂神社は習合神である「牛頭天王」を祀るところであり、確かに通常の神社とは違った位置づけにあるところであろう。「祇園」と言う名称も普段何気なく使うがそこに含まれる歴史的な背景は深い。「八坂」の場所比定は珍しく容易であったが、その背景の消化は不十分でる。今後の課題としよう…。またもや、一字残しか…。

三川


崇神天皇紀、垂仁天皇紀に登場するが、特段の特徴的な記述は見当たらない。こんな時は日本書紀を頼りにする。といって大したことはないが…「三川」=「参河」=「三河」であろう。尾張国、信濃国に隣接する。遠江国も隣接するが当てにならない、理由は既述の通りである。

現在の北九州市小倉南区蜷田若園・湯川新町辺りで三本の川が合流する、竹馬川、小原川、一本は名称不明。当時は縄文海進によって限られた範囲にしか住めるところではなかったようであるが、それゆえに交通の要所でもあったように思われる。彼らの時代に最も変化の大きな地域ではなかったろうか…。

ということで、尾張、信濃に隣接し、遠江とは遠く離れた場所となった。あまり意味があるとは思えないが…比定の整合性、かと・・・。

依網<追記参照>


開化天皇の御子、建豐波豆羅和氣王が祖となった例示の一つである。稻羽忍海部、丹波之竹野別と記述された後に続く、依網之阿毘古等之祖である。「依網(ヨサミ)」=「川波と海の波とが相寄せる所」であり、池(沼)が形成されている河口付近のところである。「丹波国」には正に合致した場所がある。

英彦山山系から流れ出る「祓川」の河口に位置する場所、覗山の西麓、南麓辺りである。現在も多くの池が存在し、それらは当時、「依網」の状態を示していたことが推測される。蓮池、石堂池等、現在の地名は行橋市高瀬・稲童である。<追記>

能登*


これも手掛かりは皆目である。高志国の近くにあると予想の上に文字解釈すると、どうやら企救半島の山越えに由来すると推測される。無口な御子が蛇の化身に追いかけられて思わず、船を曳いて駆け登ったところである。現在の北九州市門司区伊川である。近くは頻度高く登場するが、何故か出て来なかった。「能登」であった。

船を曳くという行為の表記はその後出現せず、どうやらこれが安萬侶くんのヒントであろう、またもこっそり潜ませていたように感じるが・・・。さて、本日のところの地図を参考に示すと…


前記の山城国の詳細に加え、北方の地との繋がりも豊かになっていることがわかる。その地と個別の関係を深める理由は? など考えさせられるところが多く残るが、今少し本作業を続けてみよう…入日は、望郷の思い?…。


…と、まぁ、本日は今辺で・・・。



<追記>

第七代孝霊天皇紀に吉備国を言向和して、若日子建吉備津日子命が吉備下臣となったが、よく見るとその後「笠臣」の祖となった。「笠(リュウ)」=「龍(リュウ)」なら現在の吉見下にある「龍王神社」との繋がりが見えて来る。神武天皇の「吉備之高嶋宮」の比定場所としたが、あながち外れてはいなかったようである。

2017.07.13
「八坂」の別解釈。「八坂(ヤサカ)」=「八(百万の神が)サ(佐る)カ(処)」=「八百万の神の加護があるところ」「尺」=「サカ」の訓読みがあり、「八尺」=「八坂」となる。多くの神が集まりご利益を受けることができる場所(祇園)である。上記の主旨の訂正はない(詳細参照)


上記の解釈で場所の特定ができるようあるが、現存地名から求めただけでは何とも心もとなく思われる。


八(谷)|坂

…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。

急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。

確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。


急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。(2018.05.14)<詳細はこちらを参照>
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2017.09.06
「依網(池)」の場所を修正。詳細は後日だが、福岡県行橋市矢留辺りの松田池、裏ノ谷池、釜割池、長養池であろう。
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能登*
大入杵命は能登之祖となると書かれる。現在の能登(半島)としてよく知られた地名であるが、勿論通説はその通りで比定されているようである。

では、一体何処に求められるであろうか?…「能」は「大きな口を開けた熊の象形」とある。とすると安萬侶コードは「能」=「熊」=「隈」となろう。果たして「隅」はあるのか、「熊曾」以外の「隅」は・・・前者が北端の隅ならば後者は南端の隅を指しているのではなかろうか。

現地名門司区猿喰、その入江を登ったところが「能登」であったことを示していると思われる。

東方十二道が尽きる道奥石城国の北側、高志国の南側に位置するところである。陸地が途切れた隅に当たる。

神八井耳命が祖となった道奥石城国は、現在の北九州市門司区畑、戸ノ上山東麓を流れる「谷川」「井手谷川」の南側に位置する。

当時はこれらの川によって東方に向かう陸路は行止まり「道奥」という表現が使われたのであろう、と既述した。この道奥石城国と高志国との端境にあった地と推定される。(2018.05.15)<詳細はこちらを参照>
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